出家とは、宗教的な目的をもって、世俗生活を捨てることを意味する。そこには、家を捨てるという悲壮感、あるいは、隠遁・逃避という暗いイメージは拭いきれない。
ところが、インドにおける「出家」という言葉の原語(pabbajita)の語源には、家を出るという直接の意味はなく、それは“積極的に前に進むこと”という意味である。ブッダは、王子としての栄華を極め、結婚をして一子ももうけたが、老・病・死という人間としてどうしても避けることのできない現実を直視して、29歳で出家した。すなわち、ブッダにとって出家とは、目的をもった第二の人生への積極的出発であり、家を出ることはその一つの手段であった。
インドでは古来、アーシュラマと称して、人間の一生を学生期(学問・技術・祭祀等の修得)、家長期(生業に励み、家族を養い、社会的活動をする)、林棲期(家督を譲り、森で修行する)、遊行期(巷を歩き、人生の道を人に説く)の四期に分けて、これに従う人生こそ最も理想的な生涯教育のあり方であるとされていた。そして、人生後半の林棲期と遊行期(わが国では老年期に当たる)の人が最も高く評価され、尊敬を受けていたのである。ブッダは、その遊行期の出家者の神々しい姿にひかれて、出家を決意したと伝えられる。
このブッダの生き方は、現代の豊かな物質文明を誇る高齢化社会における人間の生き方に大きな示唆を与えてくれる。出家という言葉の本義が、第二の人生への積極的再出発であるとしたら、たとえ家を出るという形態はとらなくても、自分の人生を真剣に考えて、新たな生き方に気づいたとき、その人の人生の新たな再出発になるということである。そのことが現代社会における出家と考えられないであろうか。最近、大学でも、人生とは何かを改めて問いなおし、有意義な余生を送ろうとする中・高年の学生が目立つようになった。多くの若い学生たちの中にあって、彼らの目は、誰よりも希望に輝いている。私は、人生の一番円熟した時機に、なおそこで新たに自分の人生を問い正し、研いていこうとする彼らの姿に感動を覚えるのである。