法話 ~限りない いのちになる~

もう24年も前のことです。私が23歳の時、同級生を交通事故で亡くしました。彼とは、中学校の野球部のチームメートで、3年間共に白球を追った仲間でした。私たちはそれぞれ別々の高校・大学に進学し、彼は教師を目指しました。そして、大学卒業と同時に、彼は東京の中学校に教師として赴任しました。学校では、弱小野球部を任されましたが、持ち前のガッツと牽引(けんいん)力でチームを引っ張り、その年の秋の都大会では優勝を勝ち取ったのでした。彼は、いち早く優勝の報告をと、会場から学校に向けバイクを走らせました。その途中、路面でスリップした彼は、車にはねられ即死しました。

彼の死の知らせを受けた私は、彼の実家へ急ぎました。お仏壇の前に置かれた棺(ひつぎ)の中で物言わぬ彼に、私は胸を切り裂かれるような悲しみに襲われ、葬儀の時もまともに読経ができないほど、悲しみに打ちひしがれたのでした。

しかし、月日の流れの中でその悲しみも次第に薄れ、最近では彼のことも忘れかけたような生活をしていました。ところが、そんなある日、町で偶然、彼の妹さんにお会いしました。彼の面影を偲ぶに十分な妹さんの姿を見た時、思いがけず24年前の悲しみがよみがえってきました。あの時の悲しみは、消えたわけではなかったのです。

お浄土の真(まこと)を宗(むね)として生きる。それは、このいのちがお浄土に生まれさせていただき、仏に仕上がるいのちだと知らされて生きることです。そして、このいのちがお浄土に生まれるということは、限りあるいのちが限りなきいのちに生まれるということです。

この世のいのちには必ず限りがあります。しかし、そのいのちの終わりは「死」ではなく、限りなきいのちへの誕生です。そして、限りなきいのちへの誕生は、同時にそのいのちが、残していったいのちにはたらきだす瞬間でもあります。24年経っても無くならなかった悲しみは、彼のいのちが限りないいのちとなって私のいのちにはたらき続けていた証(あかし)だったのでした。

限りある私のいのちに、お浄土の限りなきいのちがはたらく証。それがいただいた悲しみの意味でした。

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